少年の頃、どこからだったか黒曜石を手に入れて来て、本に載っていた写真を真似て旧石器時代の人たちが生活に使っていたという刃物を作った。まさか切れるはずが無いと、おもしろ半分に自分の親指に刃先を押し当て、今でも残る小さな傷跡を作ってしまった。僅かだが自分の掌を伝い、流れ落ちる血の滴を目にした時、恐怖心とは少し違う感覚、石から道具を生み出した人々に対する畏敬の念を覚え身体が震えた。思えばその体験が、自分の中に原始的なモノ、そして生きるという行為に対する強い憧れを抱かせるきっかけだったのかもしれない。

 大学に入り建築を学ぶようになっても、同級生や先輩たちがこぞって賞賛し真似しようとする建築作品は、僕にとってはあまり魅力のあるものに映らなかった。建築雑誌の中に並ぶ流行の建築作品の写真を眺めても、その中に「生きるという行為」を見出すことがやはり難しかった。高校生時代に友人たちと共に時間を過ごした薄汚れたテントの方が、よっぽど建築らしい力強さを持っているじゃないかと思った。そんな違和感を覚えながら過ごしていた僕の大学生活を一変させたのが、何気なく手に取ったSDのバックナンバー(SD0011「特集:ヒューマン・センター・デザインの可能性」鹿島出版会)の中にあった、ジョン・P・アレンのインタビュー記事だった。彼はアリゾナの砂漠で行ったバイオスフィア2プロジェクトのリーダーで、その記事の中でプロジェクトの経緯や、生きるという行為に対する彼の哲学を語っていた。何故か自分の中で全てが繋がっていくような気がして、再びあのときのように身体が震えた。こうしてジョン・P・アレンとの出会いが、僕を極地建築へと導いてくれた。

 そしていま僕は南極にいる。第50次日本南極地域観測隊の一員として、昭和基地で15ヶ月間の越冬生活を送っている最中だ。第二の生態系とも呼ばれる人工閉鎖空間バイオスフィア2では、男女8人の科学者がその中で二年間の完全隔離された生活を送った。僕を含めて28人が暮らすこの昭和基地も、年に一度の補給以外は外界と隔離された世界だ。外はマイナス30℃、ときに風速50m/s近い強風が吹き荒れる。越冬隊の中で僕は年齢的には下から二番目だ。しかしここでは年齢や過去の経歴を言い訳にすることはできない。28人それぞれが与えられた役割を全うして初めて、観測隊が、そして越冬生活が成り立つ。除雪が必要であれば、機械隊員の他にシェフだって重機を操る。基地の土台となるコンクリートは医者が練る。救急蘇生法は全員が身につけ、本格的なレスキュー訓練や消火訓練を定期的に行う。とにかく常に走り続けているようなこの越冬生活が、僕の今後にどう生きていくのかはまだ分らない。でもいま僕はこの場所で、生きるという行為を存分に味わっている気がする。

 実はこれまで二度、ジョン・P・アレン本人に出会う機会に恵まれている。初めて出会ったのは、米国ヒューストンで行われた国際宇宙学会に参加したときだ。この学会でたまたまゲストスピーカーとして来ていたジョンを偶然見つけ、とにかく一直線にジョンのもとへと駆け寄り、話しかけた。感激と緊張のあまりその時自分が何を喋ったのか全く覚えていない。帰国後しばらくして、僕のもとへジョンから封書が届いた。中には論文が何編かと、そして「君はとても印象的な良い目をしていたね。頑張れ。」とメモ書きが添えてあった。二度目の再会は日本、東京大学で講演してもらった時だ。彼は僕のことを覚えていてくれた。次にジョンと再会できたら、彼は何と言うだろう。いつでも少年のような目をしているジョンに、まだ僕は「良い目をしているね」と言ってもらえるだろうか。

200910月 南極、昭和基地からの紀行文より)